国分寺の今・昔

上谷保新田

この新田の開発が最も遅く、延享2年(1745)中藤新田から分村し開発が始まりました。当時は平兵衛新田と同様に谷保新田(現国立市)の一部で当初は5軒だけの小さな新田でした。ここは上谷保新田という名の他に「上谷保村新田」「上谷保村新田中藤村弥左衛門持ち」通称「五軒家」とも呼ばれていました。右図にあるように今は西町1丁目ですが、小字名は「西五軒家」「東五軒家」と呼ばれカミグミ、シモグミと呼ばれていたようですが、実際は「弁天」という地名の方がとおりはよかったようです。生活用水は平兵衛新田分水、砂川村分水(現立川市、弁天通沿い)ともかなり遠く、井戸水に頼っていたようです。
寺は中藤新田の観音寺で、神社は神明社と弁天八幡宮です。この地域についてはあまり資料がありません。砂川村(現立川市)や谷保村(現国立市)との関連も紐とけば、おもしろいかもしれません。
今のこの地区は下の写真のように広い畑が残っていて、私たちに憩いの空間を与えてくれています。

武蔵野の荒れ野

西町二丁目
中藤新田小字弁天にある八幡宮

武蔵野の荒れ野

西町一丁目付近

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