国分寺の今・昔

平兵衛新田

平兵衛新田は享保14年(1729)谷保新田の土地を同村の平兵衛が買い受け、東大和の3人が移住した時から開発が始まりました。その6年後には榎戸新田の支配下におかれ、元文元年(1736)に平兵衛新田として独立しました。したがってお寺は榎戸新田の妙法寺であり、鎮守は稲荷神社になりました。この稲荷神社は創建が享保10年、12年ともされます。
この地域は今の光町にあたり、下図のように小字名が光町1丁目はハケ、2丁目はハケ下、3丁目はハケ通りと呼ばれていました。飛び地が内藤2丁目、日吉町2丁目にかかる地域になりますが、小字名はハラと名付けられていました。
この新田の用水は、平兵衛新田分水ですが、今の光町3丁目辺りだけは第二小学校の東側をとおる戸倉用水を使っていて、ここの住民はシケングミ(四軒組)と呼ばれ、今でも結びつきは強いそうです。また、稲荷神社から駅方向にカミグミ、ナカグミ、シモグミと呼ばれ、同じような結びつきがあったようです。一説によると、使われ方は小字名よりもたとえば「平兵衛新田シケングミ○○○○様」というほうが多かったようです。
昭和20年代をご存知の方たちには、稲荷神社近くの水車小屋、今の鉄道総研の辺りに広がっていた泥田、稲荷神社からの中央線の眺めなど、懐かしい風景のようです(国立駅北口の開設は昭和34年)。このあたりの詳しい状況は、「平兵衛新田 むかし・現在(国立駅北口光商栄会発行)」にまとめられているので是非ご覧ください。

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