
戸倉新田
現在の戸倉1~4丁目、東戸倉1~2丁目、日吉町1~2丁目、内藤2丁目および富士本1丁目の地域です。ただし境界線ははっきりしません。この新田は享保14年(1729)戸倉村(現あきる野市)の郷佐衛門が開発を始めた土地とされています。
お寺(満福寺)と神社(戸倉神社)は開発時期から少し後になりますが、名主郷佐衛門がお寺は檜原村から、神社は戸倉村からそれぞれ移したと言われています。この地域の用水、戸倉新田分水は中藤新田からの分水で、戸倉通りの途中で二又に分かれ、戸倉通り南側と戸倉神社の通り(なかっぱら通り)の南側を通り市役所の西側から、さらにジグザグに南下し、武蔵野線と西武線の交差する地点をまたぎ、恋ヶ窪用水に流れ込んでいました。今でもこの用水跡は、私有地を含みますが点々とたどることができ、はっきり「用水跡」と分かる箇所がいくつも見られます。
この戸倉新田には、左図に示したとおり地形を示すものや、用水に関連する小字名が幾つかあります。関東学園跡地=窪東公園の所は「堀分」、多分用水で分けられた地、という意味でしょう。現市役所付近を中心に「窪東」「窪西」、たしかに今でもこのあたりが一番低い土地です。用水が分岐する満福寺の辺りでしょうか「沢又」、そして「稲袋」などは稲=水田に対する願望でしょう。
今このあたりは、畑に囲まれた静かな住宅街を形成していますが、市役所の西側を幅員36mの都道3・2・8号線が通り、道路両側30mの用途地区が変わることで、周辺の環境は大きく変化することでしょう。