国分寺の今・昔

野中新田六左衛門組

野中新田は、享保7年(1722)に江戸の商人野中屋善左衛門などを中心に下図のように現在の西東京市、小平市、立川市におよぶ広大な土地の開発が進められました。国分寺地域では、野中新田六左衛門組と榎戸新田に別れ、このふたつは別の村として発展してきました。
玉川上水から野中新田村分水が引かれたのは、開発から2年後の享保9年(1724)でした。現在の砂川用水はそれが引き継がれたものです。
新田の土地の形状は五日市街道に沿い南北に細長く、短冊状をしていました。現在でも長さ約300m、幅10mくらいの形状の土地が残っています。現在の町名は並木町、新町、北町、高木町および東戸倉2丁目、日吉町3丁目、富士本2丁目、光町1丁目などがこれに含まれます。
野中新田六左衛門組のお寺は、変遷が複雑ですが、今の鳳林院です。神社は神明社(北町)です。なお、高木組(現高木町)には別に高木八幡宮があります。
旧地名・大字小字、現地名も榎戸新田と分離し説明することは難しいので、次の「榎戸新田」で説明します。

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