国分寺の今・昔

恋ヶ窪村

武蔵野の荒れ野

江戸名所図会恋ヶ窪(部分)より

恋ヶ窪村は、畠山重忠の恋物語伝承にもあるように、鎌倉時代以前から宿場として栄えていたとされています。古い歴史を持つ地域で、現在の日立中央研究所敷地を含む東・西恋ヶ窪地区です。
江戸時代に編まれた新編武蔵風土記には「この村は往古の官道にて(現府中街道)・・・往昔の駅舎(宿場)の跡とて古瓦など多く畠中より掘り出すことあり。口伝鎌倉の繁盛なるときは、ここに遊女町あり・・・」という記述があり、歴史を端的に語っています。多分今の西国分寺駅周辺(阿弥陀堂があったとされる)から熊野神社周辺が「本村」だったのでしょう。江戸時代に入って、国分寺村分水、恋ヶ窪村分水(1657年)、野中新田分水(1729年)が敷かれると「恋ヶ窪村新田地域」「サンヤ地域」と開発が進み、村域はほぼ現在の恋ヶ窪地域全体に広がりました。今も恋ヶ窪用水跡は深い掘割として熊野神社北側にひっそり残っています。前述の大字・小字区分図には、「北ノ原」「八幡窪」「サンヤ」「天王上」「熊ノ郷」「日影山」などの地名が残されています。

第二次大戦時、当地には日立、東洋酸素、東京碍子などが進出、後年これらの工場移転跡地がそのまま開発されたため、住宅・店舗が混在した地域になっています。なお、鉄道で分断されたためか、明治22年(1889年)、新しい国分寺村の発足頃、現日立中央研究所のある押切間、多喜窪の一部が大字国分寺から大字恋ヶ窪に編入されています。
恋ヶ窪地区で忘れてはならないのは、昭和48年の武蔵野線の開通と西国分寺駅の開設です。地域としては国分寺地域に入るのですが、旧鉄道学園跡地に高層住宅、公園、道路、都立図書館(建設準備中)等が整備され現代的な街並みを形成しています。
平成10、11年、「姿見の池周辺整備事業」によって池の復活、湿地帯の整備が行われ、水と緑の景観が実現しています。
最後に先ほどの風土記に「よだれ塚 川越道の傍にして、国分寺村堺なり。高さ7尺ほど。」の記述がありますが、これも、阿弥陀堂とともに西国分寺周辺開発などで、今はその跡は残念ながら確認できません。

武蔵野の荒れ野







左図は「ふるさと 国分寺のあゆみ」に掲載されている、畠山重忠と夙妻太夫

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