
本多新田
この新田は、享保9年(1724)に国分寺村の儀衛門・仲右衛門兄弟が開き、国分寺村、野火留(止)村、檜原村などから農地を求め、江戸街道(連雀通り)北側に移住が開始されました。今の本多1丁目から5丁目までの地域です。飲み水としては貫井用水があり、今の連雀通りに引かれていました。
新田の中心はやはりお寺と神社で、享保11年(1726)に国分寺西元町にあった祥応寺(黒鐘公園上伝鎌倉街道沿い)を引寺し、同地内に八幡神社も建立し、村(新田)としては同12年から正式に発足しています。この祥応寺の前に高札所(幕府の掲示板)であったことから、この区域は「札ノ丘」という小字名が残されていました。また、特殊な小字名では、この新田の「飛び地」で今の早稲田実業のあたりが、「なだれ上」と呼ばれていました。明治19年の地図を見ても、人家はなく、樹林地になっていますから、土砂崩れが多い崖地だったのでしょう。他には下図のように、「上ノ井」「中ノ井」「下ノ井」という多分井戸を中心とした小字名がありました。
昭和3年の「多摩湖鉄道」が旅客用として開業した時には、連雀通りとの交差点に「東国分寺駅」、小平市内になりますが玉川上水との交差点南側には「桜堤駅」などができ、堤は桜見物客に沸いたようです。
この地区は国分寺駅北口にも近く、今後再開発事業の進ちょく(平成30年度完了予定)に伴い商業や交通など環境変化が予想されます。