国分寺の今・昔

中藤新田

武蔵野の荒れ野

中藤新田は、享保12年(1727)頃、中藤村(現武蔵村山市)の住人佐兵衛、源蔵等により開発されました。史料上、中藤新田の名が用いられるのは享保18年(1733)で、それ以前は、中藤村新田と呼ばれていたようです。この新田は、観音寺前の道と国分寺崖線に沿った南北に長い地域で、今の西町2丁目から5丁目に至る地域です。高木通りを境に、はけ北とはけ南の2小字名を持ちます(左図)。
中藤新田分水は崖線の上と道沿いに別れ、戸倉新田に至るものと、平兵衛新田・ハケ下を通るものがあり、西町5丁目には貴重な「胎内掘り*」(明治期)の跡がかすかに残されています。村内の観音寺は、開発から約10年後に中藤村から神明社とともに引き寺されました。この寺は、滝山城(現八王子市)の守護神として中藤村に建立されていた、と言われています。今は西町4丁目ハケ上にはけやき台団地の一部があり、周辺の開発はこれによって加速されたものと思われます。明治以降の貴重な建物として、下図にあるような養蚕棟が現存家屋の一部として残っていたり、醤油醸造場や富士塚がある(個人宅)のもここ中藤新田だけでしょうか。
※胎内掘りとは…水が出ないこの地区に玉川上水から畑や生活用の水を引くために作った地中用水路

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