
内藤新田
内藤新田の区域は、現在の地図で表すのは難しいのですが、内藤1丁目と、2丁目の一部、日吉町1、3丁目および4丁目で、小字名は「はけ上」「府中道」「久保」と点在する「武蔵野」(飛び地)で構成されています。
この新田は、府中本宿村の小野宮の内藤氏の願出で、享保9年(1724)ころから「小野宮(おののみや)新田」の名で開発が始まりました。堀口村、川辺村(現所沢市)、黒澤村(現青梅市)、本宿村(現府中市)、軍道村、養澤村、入野村(現あきる野市)の移住者によって開発されました。また、他の新田と異なり玉川上水からの分水の恩恵はなく、2か所の井戸で生活が保たれていました。そこでお互いに一方の井戸が使用できないときには、他方の井戸を使用していたため、「水汲み道」という名の道がありました。
内藤新田の小字名「久保」「武蔵野」も府中本宿村の図と照らし合わせると、同村と一体のものであることがはっきりします。今の都立多摩総合医療センターや府中市武蔵台3丁目は本宿村の「はけの下」「本宿武蔵野」なので、内藤新田の先はどの小字名(はけ上、府中道、武蔵野)はここから取られた名前だということが分かります。
村(新田)の存立にとって不可欠なお寺は内藤家(府中妙光院)を除いて現国分寺に、神社は神山家が勧請した近江の日枝山王宮、今の内藤神社でした。
享保21年(1736)には7軒、大正3年(1914)には32軒、今のような新興住宅ができ始めたのは昭和30年(1955)代以降で、静かな住宅街を形成しています。