
新田開発以前の武蔵野の情景
いまから遠い昔,西行法師(1118~1190)が武蔵野国を訪れたときの絵図が「新編武蔵野国風土記稿・名勝図会」に”西行法師武蔵野にて仙人に会う図”として描かれています。この絵のキャプションには「新田開発がなされる前の武蔵野、たぶん国分寺周辺は’なにもないすすきの野原’だったのでしょう」と書かれています。いつの時代か分かりませんが、武蔵野の原野の写真が「国分寺のあゆみ」に載っています。枯れかけた草、その先の雑木林。この写真を見ても、やはり武蔵野は国木田独歩が表現しているように荒れ野と雑木林の連続する日本に数少ない情景だったのでしょう。


徳川時代の寛延元年(1748年)国分寺市周辺の武蔵野は尾張藩の鷹場に編入されました。その時点では、国分寺の新田開発はすでに着手されていました。考えてみれば、鷹場とは鷹の訓練や鷹狩りをしていた場所ですから、鷹が獲物の動物を鷹が見つけやすい草の原で、おそらく雑木林もまばらだったのでしょう。しかもこの地は関東ローム層が地表を覆い、田んぼはできず、水はすぐ浸透し畑作にも適した土壌ではなく、開墾にあたった先人は大変な苦労をして、土壌改良を行ったことでしょう。ことによると国木田独歩が見た雑木林は、土壌改良のための堆肥を作り出すのに必要な枯れ葉から腐葉土を作り出すために、先人が作り上げた雑木林だったのだろう、と想いを馳せると、今わずかに残る雑木林がいとおしくなります。
こうした草原を時の幕府(徳川吉宗)が町奉行大岡忠相に新田開発適地として開墾を命じたのがいわゆる新田開発の始まりです。