
新田開発に必要な用水路
1722年(享保7年)7月26日江戸幕府は日本橋に新田開発を奨励する高札を立てました。早速10月ごろから江戸牛込や現国分寺市に近い上谷保から新田開発の願書がだされ、10月8日に野中新田開発の願書が提出されています。
こうした中、1723年(享保8年)5月4日北町奉行中山時春・南町奉行大岡忠相によって武蔵野台地新田開発の具体的方針がだされました。翌年には野中新田の地割渡しが始まっていますから、土地の開墾はこのころ開始されたのではないでしょうか。
しかし村としての組織が出来上がるのは、鳳林院の境内確定(1725年4月ただし創建は1713年)や愛宕神社の創設(1725年4月~6月ごろ)、妙法寺(詳細不明)、神明社(1725年勧進)を待たねばなりませんでした。
1723年6月に榎戸新田の開発が始まり、新田の開墾作業は急ピッチで進んだようです。その時の武蔵野台地は荒れ野であり、飲み水は玉川川上水か国分寺用水(現在の府中街道近くを流れていました)のみだったのではないでしょうか。
これらの用水は新田開発に携わる人々のためのものではなく、東西元町の対雨水でしょうから、各地からの出百姓はどのように生活していたか考えさせられます。おそらく生活基盤として定住するために必要な生活用水を手にすることができたのは1728年(享保13年)に野中新田分水設置の届け出がだされ、翌年4月に野中新田分水が開通した後ということになります。およそ開墾の4年間彼らは水をどこから入手したのか分かりませんが、大変大変な苦労をしたであろうことは、想像に難くありません。
