
水路の変遷4
~そして、戦後の用水路~
新田開発奨励後用水がどの場所を流れていたかは、用水の跡地をこまめに追って調べるしかありませんが、ここで利用している昭和29年に行われた地番決定の地図に水路が画かれています。

用水は明治3年大きな変化を迎えます。それまで玉川上水から直接導水していた中藤新田分水、野中新田分水、国分寺村分水が統合され、すべて砂川用水から導水することになりました。その際に問題になったのが、地図の左上に赤丸で囲った中藤新田分水でした。 中藤新田分水はその下流に平兵衛新田分水と戸倉新田分水を持つ、当時の国分寺村にとっては重要な用水でしたのでこれを止水することはできないので、どの様に砂川用水と統合するかが大きな課題だったのでしょう。砂川用水と交差するあたりで地中にトンネル(胎内堀)を作ったものと考えられます。その胎内彫りの跡は現在も残る重要な遺構です。
また、大正期には地図中央の赤丸部分の戸倉新田分水の延長が計られ、恋ヶ窪村分水とつながることになります。
昭和40年、それまで国分寺村の経済や生活を支えてきたこうした水路が、水道の普及、農地の宅地化などにより、水路利用の必要性が低くなり用水組合が解散されます。その後、用水は次々と姿を消し、今は砂川用水と呼ばれているかつての野中新田分水の南側水路のみが多摩川の水の流れる水路として残るだけとなりました。