
水路の変遷3
~新田開発が始まる~
お江戸日本橋に幕府の新田開発奨励の高札がたてられたのは、享保7年(1722年)7月26日です。
徳川綱吉の時代(1680年~1709年)の28年間に元禄地震(1703年)宝永地震(1707年)とM8クラスの地震が相次ぎ、小田原の壊滅、江戸城の一部など多大な被害が発生し、天和の大火(1698年)による江戸の広い範囲の消失などが相次ぎ、その救済、復旧、復興のため幕府の供出金は膨大になり、江戸幕府は財政的にひっ迫していたようです。
江戸の人口も慶長14年(1609年)に江戸を訪れたロドリゴ・デ・ビベロは15万人と伝えていますが、1722年には520,000人を超し、大岡越前によれば毎年1万人程度(江戸人口の2%)の伸びと予想されていたようです。
財政ひっ迫と人口増加により幕府としては当時の貨幣制度である米石を増やす必要があり、コメの増収は必須なものであった思われます。幕府は武蔵野新田開発により12,000石の年貢を期待していたと国分寺のあゆみに記載されています。
幕府の奨励を受けて、3か月後の10月8日に野中新田開発の願書が提出され、享保14年(1729年)に野中新田分水が完成。同時期に中藤新田分水、翌年戸倉新田分水、享保17年(1732年)平兵衛新田分水と続々と分水が引かれたようです。

当時の国分寺の用水路はすべて玉川上水から直接導水されたのです。 用水は作られた後、玉川上水からの取り入れ口の付け替えなどがありこの地図通りではありませんが、ミズモリ団、美しい用水の会のメンバーが水路跡を観察しこの地図を作成しました。
こうした取り入れ口の変更は、その都度代官に報告され、どの様に改修するかを文書として名主が提出し、その開削作業は新田開発に携わった農家(当時は出百姓と言っていましたが)の方が行ったようです。
大変な苦労の末、飲み水・生活用水を確保していたのです。