
水路の変遷2
~国分寺に初めて用水が引かれる~
徳川幕府の新田開発奨励(1722年:享保7年)よりはるか以前の1657年(明暦3年)に、田用水として当時の国分寺村・恋ヶ窪村・貫井村(小金井市)3村に用水が引かれました。
それ以前、いつからか、国分寺崖線沿に多くあった湧水が崖線下に田んぼに適した土地を作りだし、何らかの形で稲作が行われていたのでしょう。しかし自然に依存している稲作でしたので、渇水期もあり、また湧水の温度が低く思うようには稲が収穫できなかったのでしょう。
先の3村が幕府に玉川上水から用水を引く計画を要望し、それが認められ、田んぼに引く水として「国分寺用水」「恋ヶ窪用水」「貫井用水」を村民挙げて開削したのです。

玉川上水からの用水路取り入れ口は現在のところ正確には断定できないのですが、府中街道久右衛門橋上流から導水され、現在の府中街道脇を南に下り、恋ヶ窪交差点から連雀通り沿いに貫井村用水が開削され、恋ヶ窪村用水は、孫の湯通りに入ってすぐ南下し府中街道の東側を流れ、流末は姿見の池に合流したようです。
さらに、国分寺村用水は孫の湯通りに入って通り沿いを流れ、現在の日立中央研究所の東の道路沿いを南に下り、花沢橋のあたりをさらに南に下りまっすぐ野川に合流したようです。
この用水のお陰で、米作は大幅に増収となり、“国分寺市の今昔”にはよれば、恋ヶ窪・国分寺村の年貢は158石(俵約60俵相当)であったものが、用水開削後は約3倍の462石になったということです。
東元町にお住いの本多克己氏の昭和16年当時を回想したスケッチにも、国分寺崖線沿いにある東福寺や姿見の池周辺、野川沿いの現西元町~南町周辺は田んぼだったのです。(下の絵の緑色部分が田圃だったところです)。このような田園風景は国分寺の原風景です。

国分寺のまちはこうして崖線下を中心に江戸時代発展を続けてきました。