砂川用水物語

新田開発政策の背景

過日、国分寺市学芸員の話を聞きました。それによると、新田開発は今でいう「財政再建」の手だてだった、それほど徳川幕府の財源はひっ迫していたそうです。その原因の多くは、第5代将軍綱吉(1680年~1709年)の時代の様々な災害に原因があったそうです。確かに歴史書には、1689年の元禄の大火、1703年の元禄地震(これにより江戸城が崩壊)、1704年の浅間山噴火、諸国の洪水、1707年富士山の噴火と地震と立て続けに災害が襲ったのです。短命に終わった6代将軍家宣(1709年~1712年)も必死に災害の復旧にあたったのでしょうが、新田開発を推進した8代将軍吉宗の時代にまでその余波が及び、江戸城修復のみでなく広く被害を受けた各藩への支援も行い財政は底をついていたとのことです。とりわけ「大奥」にかかる経費の増大もあったそうです。

そこで、吉宗は内では大奥の縮小を図りつつ、徳川3大改革と言われている「享保の改革」に乗り出し、その重要な経済政策として新田開発に着手したのです。この重要な施策を成功させるために吉宗は、当時町奉行であった大岡忠相(あの大岡越前守です)を将軍直属の関東地方御用掛として徴用したのです。この抜擢は、異例であり、吉宗と大岡の緊密な関係が手に取るようです。何かうれしくなりませんか。あの庶民の味方大岡越前守が幕府から信頼され、私たちの町国分寺の新田開発に絡んでいたんです。

新田開発を奨励する高札が日本橋の建てられたのは享保7年(1722年)7月26日のことでした。

当時南町奉行であった大岡忠相は、北町奉行とともにこの奨励の具体的な開発計画を作成し、翌8年(1723年)5月4日に武蔵野台地開発の具体的な方針を各村に示しました。 これに先立つ享保7年10月5日には上谷保村から武蔵野新田開発願書が出ているわけですから、大岡達もおそらく、新田開発の気運の高まりに応えるべく、開発計画作成にも熱の入ったことでしょう。 ちなみに、上谷保村の新田開発は冥加金として250両を幕府に出金し(享保8年6月)、開発地の承認を得たということです。

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