砂川用水物語

用水のおかげで
今の国分寺市の基盤が確立した

この表は、用水がどれほど国分寺の経済を支えてきたかを理解できるものです。 徳川幕府は12,000石の租税を新田開発から期待していたということです。

新田の租税

国分寺に用水が敷設される以前は湧水で農業生産していたようですが、国分寺旧村2村(国分寺村と恋ヶ窪村))の納税高は158石でした。その後、国分寺用水開設(1657年)後、新田開発のための用水敷設(1729年)後と大幅に増収に向かい、多くの水路が敷設されて7年後の元文検地では1,914石にまで増加したのです。

新田開発は武蔵国の多摩郡(国分寺はここに属する)、入間郡、新座郡,高麗郡の82ヶ村で行われ、幕府が租税予算として新田開発石高12,600石あまりを期待したものでしたが、国分寺は元文元年の検地では1,914石の租税を納めており、幕府期待の納税分の15%を新田開発に寄与した8ヶ村で納めたことになります。

ですから成績優秀な我がまち国分寺であったことが分かります。これも、分水が引かれその水で生活が出来たおかげなのです。しかも新田で生産された石高は、元文元年検地では、国分寺旧村(国分寺村、恋ヶ窪村)の国分寺崖線下集落が711石であるのに対し、新田開発された村々の総石高1203石という大幅な生産高の開きが出たのです。国分寺市が想定している江戸期の平均石高を見ても、新田開発が今の国分寺市が誕生する前から国分寺の経済を拡大させ、基盤を作ってきたことが明らかな数字です。これも用水があり、先人たちのたゆまぬ努力があったおかげと言えるでしょう。

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