玉川上水&分水網遺構100選ウォーク
2022.07.11

小川用水(1)

第8回は、小川用水を新堀用水の分岐口から小川寺を経由して小平神明宮まで歩きました。 今回のルートです。

小川用水は、明暦2年(1656)、玉川上水の開削(1653)から3年後に開削されました。玉川上水の分水の中では野火止用水(1655開削)に次ぐ早いものです。小川村の開発は、明暦2年(1656)に、当時岸村に住んでいた土豪小川九郎兵衛が、代官今井八郎左衛門に開発を願い出たことからはじまります。

この地域は、青梅街道の田無や箱根ヶ崎など、七か所へ向かう道が走る交通の要衝でありましたが、人家もなく、天候次第では往来する人馬が喉の渇きにより、行き倒れてしまうことも多くありました。九郎兵衛は明暦2年に、各方面への伝馬継ぎ(てんまつぎ)を勤めること、そして、往来する人馬の助けとなるよう、自らの私財を投じて新田を開発することを、今井八郎左衛門に願い出て、容れられ、その後、老中の松平伊豆守信綱(川越藩主)から、西は玉川上水と野火止用水の分岐点より、東は田無方面へ開発するように指示されました。飲み水の入手が困難であった当地の開発に際し、まず最初に手掛けられたのが、小川用水の開削でした。

小川用水の分水口は2度ほど付け替えられており、当初は玉川上水の400mほど下流、東小川橋付近にあり、玉川上水から直接取水されていました。文化4年(1807)に反対の上流側100mほどの場所に付け替えられ、明治3年(1870)に玉川上水の通船計画に基づく分水口改正(統合)により、新堀用水が開削され、新堀用水からの分水に改められたとき、現在の場所になりました。

参考資料
 【小川用水1(川のプロムナード)
 【小平市史~小川九郎兵衛の開発願い~(こだいらデジタルアーカイブ)

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玉川上水の南側から小川橋を見たところです。

小川用水取水口【100選】


小川用水の取水口は、新堀用水の小川橋の下、上流側の際にあります。夏のこの時期は笹が生い茂って見通せませんでした。


左の写真は2月に撮ったものです。

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小川用水は立川通りに沿って、北に流れます。 立川通りを少し歩くと、水路が現れます。


このあたりの水路は深いです。 小川橋の近くに新堀用水の胎内堀があるくらいですから、標高が少し高いのでしょう。

彫刻の谷緑道【100選】

150mくらいの区間ですが、「彫刻の谷緑道」という水路に沿った遊歩道があります。 水路の中や斜面のところどころに彫刻が野外展示されています。


水路の際にハンゲショウが群生していました。

緑と心・ふれあいの林


緑道を過ぎて少し歩くと、「緑と心・ふれあいの林」という雑木林があります。


ここまで来ると、水路はだいぶ浅くなります。

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立川通りに沿った小川用水です。普通の水路になりました。

上宿小学校を過ぎたところで、水路は立川通りから左に直角に折れ、青梅街道に向かいます。

南北分岐の水門【100選】

青梅街道に出たところに水門があって、小川用水は、青梅街道の南北に分かれて流れます。

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北側に行く水路は、青梅街道を横切り、クロネコヤマトの脇を流れて少し行ったところで右に折れ、青梅街道に平行して流れて行きます。

魁(さきがけ)の流れ【100選】

南側の水路は、150mほど青梅街道に沿って流れます。 「魁(さきがけ)の流れ」と名前がついています。

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けやき通りを渡ったところ、けやき通りに面して、青梅街道から立川通りまで、小川緑地と児童公園になっています。小川用水は、青梅街道に沿って、小川緑地の脇を流れ、緑地の先で直角に折れ、緑地の縁に沿って屋敷の中を流れます。 用水の水は一部緑地の中に流れ込んでいます。

小川緑地

小川緑地の中に入った用水の流れで、ビオトープのような水辺が作られており、小川用水に戻ります。


少し小高い林のようなものも作られています。

日枝神社

小川緑地を抜けて、立川通りに出ました。この先、立川通りが青梅街道にぶつかる少し手前に日枝神社があります。
「1658年(万治元年)山王宮の神主山口大和守求馬が小川九郎兵衛と協力し、江戸麹町(現千代田区永田町)の日枝神社を分祠、日吉山王宮として祀ったもの」と説明板にありました。

参考資料
 【小川日枝神社(猫の足あと)

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小川用水は、日枝神社の裏を抜けて、立川通りに出てきます。

小川用水は、立川通りを横切り、向かいの農園に入って行きます。


野菜を直売しているので、少し入らせていただきました。


水路は農園の中を流れ、先へと行きます。

竹内家の大けやき

再び立川通りを歩きます。
青梅街道にぶつかる三叉路の少し手前を、大けやき通りに少し入ると、「竹内家の大けやき」があります。樹齢300年以上で、小平市の天然記念物第1号だそうです。 近くに説明板が設置されていました。


小川用水は、大けやきのすぐ下を流れて来ます。

小川寺

青梅街道に戻って少し歩くと、小川寺があります。
明暦2年(1656)、小川村開発と同時に、小川九郎兵衛が、江戸市ヶ谷河田町の月桂寺住職・雪山碩林大禅師を勧請し、開山として建立した寺院です。 入口に説明板が設置されていました。


山門を入ってすぐに、馬頭観音の四角い石柱があります。脇には、文化15年(1818)と彫られているのが見えます。


境内には、現役の梵鐘の他に、小平市の有形文化財となっている梵鐘があります。 貞享3年(1686)に鋳造され、小川寺檀家57戸から寄進されたものです。小川九郎兵衛没後18年に当たります。 説明板が設置されていました。

小川九郎兵衛墓

小川寺の境内を抜けて、墓地の入口に、小川九郎兵衛の墓があります。 九郎兵衛は、没後岸村の禅昌寺に葬られましたが、後に分骨され、ここに墓が作られました。
説明板が設置されていました。

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小川用水は、小川寺の境内の裏と墓地の間を流れて行きます。

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小川寺の前の青梅街道を北側に渡ります。


小川用水の北側の流れは、小平神明宮の参道を横切って青梅街道に沿って流れています。

小平神明宮

明暦2年(1656)、小川九郎兵衛により、小川村の開拓願いと共に神明宮の勧請が発願されました。5年後の寛文元年(1661)に、多摩郡殿ヶ谷村(現在の瑞穂町)の阿豆佐味天神社の摂社で岸村神明ヶ谷の神明社を勧請し、社殿を造営、小川村の総氏神としたのが小平神明宮の始まりです。 説明板が設置されていました。

大祓の神事は6月末に行われますが、茅の輪がまだ残っていました。

境内には、本殿の他に、東殿と西殿があり、御主神の他に、合わせて10社祀られています。 御主神と10社の説明がありました。興味がある方はご覧ください。


境内で、御神饌用のイネが栽培されていました。コシヒカリだそうです。赤米ではなかった。

八雲せせらぎ水辺【100選】


小平神明宮の参道を挟んで、小川用水の上流側と下流側の一部は、青梅街道に沿って、ちょっとしたせせらぎになっています。「八雲せせらぎ水辺」という名前がついています。

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今回のウォークはここで終了。近くのバス停から小平行のバスに乗りました。

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おまけに、歩いている途中で見つけた植物を紹介します。


彫刻の谷緑道に咲いていたのは、ヒトツバハギ(一つ葉萩)でしょうか。 ハギの葉に似ているからとのことですが、秋の七草のハギとは関係ありません。 雌雄異株で、これは雄花のようです。


小川寺の境内にコノテガシワの若い実が付いていました。 ヒノキの仲間で、葉が、子供が手のひらを垂直に立てたような形なので「児の手ガシワ」と呼ばれるようになったそうです。 ところが、漢字で書くと「側柏」。これは中国名から。中国ではヒノキの仲間を「柏」と書くらしい。

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