玉川上水&分水網遺構100選ウォーク
2019.09.26

拝島~砂川・流泉寺

第2回は、第1回の終点であった平和橋から玉川上水に沿って下流へ歩きました。 今回のルートです。

拝島原水給水口

拝島駅の北口を出てすぐの平和橋から玉川上水の右側の歩道を歩きます。
こはけ橋の少し手前に都水道局の拝島原水給水口があります。右側(南側)から流れ込むようになっており、原水口の上には「つつじばし」という橋が架かっています。昭和16年(1941年)、当時東京への給水が従来の上水では不足しはじめたため、突貫工事でつくられたとのことで、拝島町の昭和用水から取水した水を、補給ポンプ所で押し上げ、給水しています。夏場の今は、水は流れていませんが、冬場は流れるそうです。

参考資料
 【都水道局拝島原水給水口(あきしま水と記憶の物語)

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そのまま右岸を歩き、西武拝島線の踏切を渡り、しばらく歩くと、拝島上水橋のところで突き当たります。右手正面に「上水公園」があります。
ここからは、橋を渡って、上水の左岸を歩きます。右岸の側は、昭和の森ゴルフコースになっており、歩けません。
美堀橋を過ぎて、しばらく歩き、ゴルフの練習場になるところで、上水は暗渠に入り、その上は公園のようになっています。 戦時中、ゴルフコースのところには昭和飛行機という軍需工場があり、暗渠の部分の南側に滑走路があったそうです。その滑走路の延長計画があり、上水に覆蓋工事が施されたとのことです。松中橋の手前で、上水は再び顔を出します。

松中橋(砂川・柴崎分水取水口)および砂川分水の始まりの部分

松中橋のすぐ手前の右岸に砂川分水と柴崎分水の取水口があります。砂川分水は、江戸時代初期の明暦3年(1657年)に開削され、野火止用水の次に古い分水とされています。これにより砂川の新田開発が進みました。一方、柴崎分水は江戸時代中期の元文2年(1737年)に開削されました。

橋を渡る道路を横切ると、砂川用水と柴崎用水が顔を出します。砂川用水は玉川上水に並行して流れています。砂川用水は、玉川上水と遊歩道を挟んで、右側をしばらく開渠で流れますが、その後はグリーンタウンという新興住宅の家の前の道の下に埋まってしまいます。
砂川分水の元の取水口は、砂川1番の天王橋と稲荷橋の間あたりにあったそうですが、今はその痕跡はありません。取水口が現在の場所に移されたのは、明治3年だそうです。

参考資料
 【玉川上水の分水(4)~砂川分水・柴崎分水~(武陽ガス)
 【砂川新田(2)(おたまじゃくし)

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しばらく樹木の中の小道を歩きます。ところどころに彼岸花が咲いていました。
その先は天王橋です。右手の道路の角に小さな神社があります。地図では八雲神社とありますが、名前も出ていない小さな祠でした。この先は、上水の左岸を歩きます。

残堀川の伏越(ふせこし)

少し歩くと残堀川の伏越があります。玉川上水が残堀川の下をサイフォンの原理でくぐっています。
玉川上水が開削される前の残堀川は現在の見影橋付近の立川断層の断層崖下を流れていましたが、玉川上水ができた時に残堀川を玉川上水に流れ込ませるために、両河床の高さが同じになる約600m上流に移動させました。
明治時代の中頃、上流の箱根ヶ崎や村山で養蚕や織物業が盛んになり、残堀川の水質が悪化したため、玉川上水に流れ込まないよう、残堀川を玉川上水の下をくぐるよう改修しました。残堀川は普段殆ど水が流れませんが、大雨の時には急激に増水して、流木などが玉川上水のところでひっかかり、しばしば洪水を引き起こしました。そこで、昭和38年(1963年)に現在の玉川上水がくぐる方式に変更したそうです。

参考資料
 【立川断層が造った小川 残堀川と矢川(多摩のあゆみ 147号)

源五右衛門分水口跡【100選】

残堀川の後は右岸を歩きます。しばらく行くと、見影橋があります。橋のところに「見影橋と源五右衛門分水」の説明がありました。橋のすぐ手前の右岸に源五右衛門分水口があります。この分水は、当地の名主であった砂川源五右衛門の屋敷内にある水車を動かすために引かれたもので、水田にも使われていたようです。開設されたのは、明治43年(1910年)だそうです。

参考資料
 【玉川上水の分水(5)~源五右衛門分水~(武陽ガス)
 【砂川源五右衛門(まるごと玉川上水ブログ)

旧残堀川跡

見影橋を渡ってまっすぐ北に行くと西武線のガードがあります。ここでは西武線は土盛りの上を走っています。西武線の脇に立って東側の玉川上水駅の方向を見ると脇の道路が緩やかに上っているのがわかります。ここが立川断層だということが実感できます。
西武線をくぐって少し行って、道が右にカーブするところの右側の畑のフェンスの中に「旧残堀川跡」の説明があります。不思議な場所に立っています。
玉川上水が開削される前の残堀川はこの付近を立川断層に沿って流れていたと考えられています。普段は細長い窪地であるが、大雨になると洪水を引き起こす川であったようです。

巴河岸跡【100選】

再び上水に戻って、右岸を歩きます。上り坂になるところに、「巴河岸跡」の説明がありました。
明治2年9月、砂川村名主・源五右衛門、福生村名主・半十郎、羽村村名主・源兵衛の3人連名で、「玉川上水船筏通行願」を新政府に提出しました。明治3年4月に許可がおります。しかし、通船を開始してから2年を経過して、玉川上水の汚濁が目につき始め、明治5年5月に廃止されてしまいました。
巴河岸は、船溜場(ふなだまりば)の一つです。通船廃止によって埋め戻されてしまい、痕跡は残っていません。

参考資料
 【巴河岸跡(立川市教育委員会)
 【玉川上水通船・「巴河岸」(カフェ「道みち」)
 【玉川上水通船(おたまじゃくし)

立川断層の大曲【100選】

巴河岸跡の先は、道が緩やかな上り坂になって右にカーブしています。玉川上水もここで右にカーブします。
ここは玉川上水が立川断層にぶつかるところです。立川断層は東側が数メートル上がっているので、これを越すために大きく迂回するしかなかったのでしょう。
グーグルマップの航空写真を見ると、大きく迂回している様子がよくわかります。

金比羅山【100選】

しばらく行き、金比羅橋の手前の右手の小山が金比羅山です。玉川上水側からは登れず、ぐるっと回って、南側から登ります。登り口に立川市教育委員会の説明があり、中腹には由来の説明があります。
由来によると、「文政年間(1854~1860)に砂川村の名主 砂川家が願主となり、頂上に富士浅間、中段に金比羅神社、下段に秋葉神社を勧請したと伝えられています。」「江戸時代に流行した富士塚ではないかといわれています。」現在は、頂上に金比羅神社、中段に秋葉神社がまつられています。玉川上水の舟運が行われた頃から金比羅山と呼ばれるようになったとのことです。

参考資料
 【金比羅山を登る(まるごと玉川上水ブログ)

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ここで玉川上水と別れ、五日市街道の方へ、砂川新田開発の面影をたどりました。 金比羅山の登り口から見影橋公園に戻り、砂川家の大きな屋敷林に沿って五日市街道に出ました。

見影橋公園から五日市街道に向かう途中に大きな工事の現場がありました。たまたま外にいた職員の方が工事の現場を見せてくださいました。
大きな立坑の下の方に横につながる配管が見えます。東京都水道局の送水管新設工事だそうです。東村山浄水場から拝島の給水所まで約16kmにわたり直径2mの送水管を新設する工事です。ここはその中継地点だそうです。災害時にも供給が止まらないように送水管を2重化する工事です。玉川上水の地下30mを通します。

砂川家と砂川新田開発の歴史

砂川家の門は五日市街道に面していて、門の前を砂川分水が流れています。 中に入ることは出来ませんが、門のところの写真を撮らせていただきました。 門の東側の砂川分水には1mほどの落差があり、勢いよく水が流れ落ちています。 昭和40年までは、ここに直径4.5mの大水車があったとのことです。

ここで、砂川の新田開発の歴史について少しまとめます。
慶長14年(1609年)、狭山丘陵の麓の村山郷「岸(きし)」(現在の武蔵村山市)に住む三右衛門(村野、後に砂川)が新田の開発を幕府に願い出とされています。そして、実際に開発が始まったのは寛永4年(1627年)だそうです。
玉川上水が開設し、砂川分水が引かれる前から開発は始まっていました。水無川ながらここに残堀川が流れていたことが背景にあるのでしょうか。砂川新田の開発が本格的に進められるようになったのは、砂川分水が流れるようになってからです。

参考資料
 【砂川新田(1)(おたまじゃくし)

流泉寺

今回のゴールは流泉寺です。山門脇に立川市教育委員会の説明がありました。
流泉寺は、臨済宗建長寺派の寺院で天龍山と号します。砂川新田開発が始まった頃、時を同じくして、慶安3年(1650年)に、殿ヶ谷村の福正寺14世東林香玉和尚が開山となり、創建されたとされています。
明治時代には、ここが村の教育の中心となり、約30年にわたって小学校が設けられたり、村役場がおかれたこともあったそうです。

参考資料
 【流泉寺(多摩地区寺社案内)
 【流泉寺(PortalTokyo)

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