玉川上水&分水網遺構100選ウォーク
2023.02.20

野火止用水(1)

今回から数回に分けて野火止用水を歩きます。第10回は、玉川上水駅を出発し、「清流復活」の玉川上水との分岐点から八坂駅まで歩きました。 今回のルートです。

野火止用水は、玉川上水開削で功績のあった川越藩主老中松平信綱により、領内に生活用水を供給するために開削された用水路です。玉川上水の最初の分水として、玉川上水が完成した承応2年(1653)の翌々年承応4年(1655)に開削されました。 玉川上水7、野火止用水3の割合で分水されたそうです。
現在では「野火止」と書きますが、開削当初は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていたそうです。 また、信綱の武家官位である「伊豆守」にあやかって「伊豆殿堀」とも呼ばれています。

参考資料
 【野火止用水(ウィキペディア)
 【野火止用水の歴史(小平市ホームページ)
 【野火止用水1(川のプロムナード)
 【野火止用水をゆけば(小平市立図書館)

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玉川上水駅から玉川上水を下流に少し歩くと東京都水道局の小平監視所があります。多摩川の水はここで終わり、ほぼ全量が東村山浄水場に地下の導水管で送られます。 小平監視所の下流側からは、高度処理された再生水が流れています。
第3回で歩いたところなので、詳しくはこちらをご覧ください。

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野火止用水の分岐は、小平監視所の下流側なので、野火止用水を流れる水も高度処理水です。 現在は、玉川上水から明確に分岐はしておらず、高度処理水が玉川上水側と野火止用水側にそれぞれ流れているだけなのかもしれません。
玉川上水の「清流復活」の碑の近くから西武拝島線の線路に沿って遊歩道があり、その下を暗渠で流れています。 遊歩道の始まりのところに、説明板がありました。

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野火止用水は、しばらくの間、暗渠になっていて、その上の遊歩道を歩きます。
小平監視所が出来て東村山浄水場に通水が始まった時、導水管の敷設を水が流れなくなった野火止用水の流路を利用しておこなったとのことです。
昭和59年(1984)の「清流復活事業」で、野火止用水はよみがえりますが、導水管を敷設している区間は開渠にならず、通水管を平行して埋設してあると思われます。

赤松並木


西武拝島線に沿って、東大和市駅までの中間あたりまで来ました。
このあたりは、樹齢60年以上の赤松が並ぶ並木道になっています。
「赤松並木」と呼んで見どころとなっています。

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東大和市駅の少し手前まで来ました。 遊歩道を説明する看板がありました。

青梅橋道標庚申塔

東大和市駅まで来ました。駅前を青梅街道が走っています。
昔、野火止用水がここで青梅街道を横切っていたので、青梅橋が架かっていました。 暗渠になった時に橋は壊されて、現在は痕跡も残っておらず、説明板だけがあります。もう1枚古い説明板がありますが、字が殆ど消えてよく読めません。昔の青梅橋の絵が描かれているようですが、下の「御嶽菅笠」の橋の部分を拡大したもののようです。

嘗て青梅橋が架けられていたあたりの歩道の縁に祠の中に納まった庚申供養塔があります。安永5年(1776)と彫られています。また、側面には道の行く先が彫られており、道標の役目も果たしていました。 左には、嘗ての青梅橋の橋柱があります。
庚申供養塔の隣にある大木は、「こだいら名木百選・第1号」に指定されている「イチョウ」です。
下の写真で、庚申供養塔の背中を走っているのは、小川橋から来る「村山街道」で、背中に向かって来る道が、「青梅街道」です。

参考資料
 【青梅橋跡(東大和市史跡)(東大和どっとネット)
 【青梅橋の移り変わりを見守った庚申塔(狭山丘陵の麓で)

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青梅街道を渡ると、西武拝島線は右にカーブして野火止用水から離れてゆきます。

瘡守稲荷(かさもりいなり)

丁度野火止用水と西武拝島線が分かれるところの右手に小さなお稲荷様があります。 瘡守稲荷(かさもりいなり)です。 元は、青梅橋の傍らにあったものが、駅前広場の整備に伴ってここに移設されました。 江戸時代から、瘡守稲荷と呼ばれ、疱瘡や色々な病に霊験があるとお参りされていたとのことです。

参考資料
 【青梅橋の瘡守稲荷(東大和どっとネット)

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西武拝島線をくぐって少し行くと水路が現れます。 東村山浄水場への導水管が埋められたところに作られた人工の流れです。 野火止用水の水路も埋められているのでしょうか。

ホタルの里【100選】

水路の中間あたりに、水路に平行して流れを作り、ホタルを育てている区画がありました。 「ホタルの里」と名前がついています。

参考資料
 【ホタルの里づくり(東大和市ホームページ)

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流れの脇の変電所の柵にキセキレイがとまっていました。

清流復活の碑

水路が終わると、野火止用水は右に折れ、ここから姿を現します。
近くに「清流復活の碑」があります。本当の意味で、ここから野火止用水の復活です。
浄水場への導水管は、この先150m程で斜め左に折れ、一直線に東村山浄水場へと向かいます。水路の上は、遊歩道になっています。
下の写真の左側が、東村山浄水場に向かう遊歩道。右側が、野火止用水です。

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このあたりの野火止用水は、昔の面影を残しています。

野火止緑地【100選】


ここからしばらくは遊歩道の左手に緑地が広がり、気持ちの良い道です。
野火止用水に沿って、ところどころに緑地が残っていて、東京都が「野火止用水歴史環境保全地域」に指定し、保全に努めています。

用水工夫の像


少し歩いて、けやき通りを渡ったところに「用水工夫の像」があります。 東大和市の美術工芸品設置事業の一環として設置されたものだそうです。
近くに野火止用水の「清流復活」と「歴史環境保全地域」を説明した掲示がありました。

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歩きながら、野火止用水は、色々な顔を見せてくれます。

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西武国分寺線を渡ります。

九道の辻公園

西武国分寺線を渡ると、野火止用水と道路を挟んで右側に九道の辻公園があります。 道路に沿って細長い公園で、いくつか彫刻が置いてあります。

九道の辻

野火止用水が府中街道とぶつかった交差点は、現在は「八坂」交差点ですが、嘗ては「九道の辻」と呼ばれていました。
橋の傍に「九道の辻」の標柱が立っています。標柱には「この辻は、鎌倉へ18里(約72km)、前橋へも18里と旧鎌倉街道のほぼ中間にあたります。江戸道・引股道・宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道・大山街道・鎌倉街道の九本の道が、この地に分岐していたことから、九道の辻という名がつきました。」とあります。
下の「迷いの桜」の説明板に地図が描かれています。
ここにも野火止用水の説明板がありました。

迷いの桜

九道の辻の府中街道を渡った八坂交番の裏手の東京街道の角のところに「迷いの桜」の説明板があります。
説明板によると、「元弘3年(1333)5月、新田義貞が鎌倉攻めの際にこの「九道の辻」にさしかかり、どれが鎌倉への道か迷ったので、一本の桜を植えさせた」とあります。
桜は幾度も植え替えられ、最近は、昭和55年(1980)に植えられたとのことですが、40年以上経っているので、あたりを見ましたがそれらしきものは見つかりませんでした。

石橋供養塔・馬頭観音

九道の辻の府中街道と野火止通りの角の野火止用水の傍らに石橋供養塔とその右側には馬頭観音が並んであります。
石橋供養塔には、元文5年(1740)と刻まれ、左右の側面には「左前沢道 是より江戸道 右八王子道」「右 川越道 左青梅道 これより山口道」と刻まれているようです。
馬頭観音は、明治44年と刻まれていて、比較的新しいものです。

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野火止用水は、九道の辻からさらに北に、西武多摩湖線の下を流れて行きます。

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多摩湖~境の水道道路まで来ました。今回はここまで。八坂駅に向かいました。

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