玉川上水&分水網遺構100選ウォーク
2022.01.20

井の頭公園~浅間橋

第6回は、吉祥寺駅から井の頭公園を経由して、ほたる橋から開渠の終端の浅間橋まで、玉川上水に沿って歩きました。 今回のルートです。

井の頭公園【100選】

吉祥寺駅を出発して、井の頭公園の池を右回りに上流の方に歩きました。

野口雨情碑があります。この碑は、1952年に東京雨情會が建立したものだそうです。
碑には「井の頭音頭」の一節「鳴いてさわいで日の暮れごろは葦(よし)に行々子(よしきり)はなりゃせぬ」と刻まれています。
地元出身の歌手サニーたけしさんが歌ったYouTubeがありました。お聞きください

そのすぐ先、池の上流側の端に「お茶の水」と呼ばれる湧水があります。井の頭池の水源の一つでしたが、現在は、ポンプで地下水を汲み上げているそうです。
名前の由来は、鷹狩りに来た徳川家康が、水を汲んで、お茶を点てたという伝説からだそうです。

ここから玉川上水の方に向かいます。途中に御殿山と呼ばれる雑木林があります。 説明板によれば、縄文時代の竪穴住居跡発見されたところとあります。
御殿山の名前の由来は、徳川家光が鷹狩りをした時の仮宿舎がこの高台にあったことからとか。


寒い日でしたが、気の早い梅の花がちらほら咲き始めていました。

前回訪ねた「松本訓導殉難の碑」の脇を通って、玉川上水の「ほたる橋」に出ました。 ほたる橋から下流を見た玉川上水です。

牟礼分水取水口・分水堰

ほたる橋のすぐ下流のところに、牟礼分水取水口跡があります。
説明板によると、「牟礼分水は湧水に頼っていた不安定な農業用水を補給する目的で、延享2年(1745)に江戸幕府へ出願し許可されました」とあります。
牟礼(無礼)村1ヶ村のための分水で、玉川上水の分水としては異色の存在です。

参考資料
 【川のプロムナード
 【imakenpressブログ

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緑道の傍らの住宅のロウバイが咲き始めています。まだ丸い蕾がほとんどです。

少し下ると「新橋」があります。この橋の10mほど下流の水面で、入水した太宰治の遺体が発見されたそうです。入水したと思われる場所から1.1kmほど下流です。当時はかなりの水量があったと思われます。

松影橋の下流、右岸側に法政大学中学高等学校に隣接して玉川上水緑道の雑木林があります。ここでもナラ枯れの被害が出ているようで、粘着シートが巻いてある木が何本かありました。

法政大中学高校の門柱

そのすぐ先に学校の校門があります。ここは以前、東京女子大学があったところで、門柱は、1954年にカナダ人宣教師A.R.ストーン先生が東京神学大学に寄贈したものだそうです。
先生は1954年の青函連絡船「洞爺丸」の海難事故の際、婦女子を助けて自ら犠牲になりました。その愛と魂を顕彰して門柱を保存しているとのことです。

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井の頭橋から玉川上水の左側を歩きました。 ところどころにベンチがあり、とても気持ちの良い散歩道です。


宮下橋の少し先にある小さな緑地で小休止。


さらに500mほど歩いたところに架かる橋は、「長兵衛橋」です。 名前から何か歴史的な背景があるかと調べてみましたが、殆どありませんでした。 牟礼村の村長だった長兵衛さんが自費で架けたということです。

長兵衛橋から下流を見た玉川上水です。

「牟礼橋」と「どんどん橋」【100選】

その先100mほどで、人見街道にぶつかります。ここに架かるのが「牟礼橋」です。
この上流側に「どんどん橋」という古い小さな石橋があります。 自動車が通る今の人見街道になる前は、こちらが「牟礼橋」で、府中に通じる主要な道でした。
傍らに石橋建立供養之碑が建っていて、宝暦7年(1757)の刻印があり、それまでの板橋を石造に架け替えた旨が記されているそうです。現在の橋は、昭和8年(1933)に架けられたらしい。
「どんどん橋」の名前の由来は橋の下を流れる玉川上水の水が「どんどん」と音をたてて流れていたとか、昔は木の橋だったので橋を渡ると「どんどん」という音がしたとか諸説あるようです。

参考資料
 【武蔵野・多摩MTB散歩
 【Broの肖像(玉川上水 どんどん橋)
 【人見街道 旧牟礼橋(どんどん橋)旧道

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玉川上水は、井の頭公園あたりからこの付近まで、大きく蛇行して流れています。井の頭池は、武蔵野台地の扇状地の端に位置していて、この付近から傾斜が緩くなります。 玉川上水は、少しでも標高の高い所を選んで水路を引いたため、このように曲がりくねったと、説明板にありました。

庚申供養塔

牟礼橋を杉並区側に渡った、丁度、三鷹市と杉並区の境のところ、大きなケヤキの木の下に人見街道に背を向けて庚申供養塔が祀ってあります。元禄13年(1700年)造立と彫られています。
牟礼橋のところで、2019年に開通した東八道路が接していて、歩道が新しくなっています。庚申供養塔が昔のままの場所にあるのか分かりません。

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牟礼橋から下流は、新しくできた東八道路の上下線の間を流れ、遊歩道が新しく整備されました。ここから右岸側を歩きます。

久我山水衛所跡


しばらく歩いてゆくと、兵庫橋の少し手前に久我山水衛所跡があります。

水難者慰霊碑【100選】

その少し下流に水難者慰霊碑が建っています。
柵の中なので、碑の裏側は見えませんでしたが、金田一京助先生による、投身自殺した愛娘への弔歌が刻まれているそうです。
「うれひなく さちかきりなき あめのくにに
     さきそひいませ とはやすらかに   金田一京助
              昭和廿七年十二月 杉並文化新聞社建之」
とあるそうです。。

参考資料
 【人喰い川紀行・玉川上水

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兵庫橋の次は岩崎橋です。すぐ近くの「玉川上水緑道公園」で昼食にしました。

烏山分水口跡・上北沢村分水口跡

岩崎橋の左岸の下流側に説明板があります。 説明板によれば、昭和14年(1939)に、近くに岩崎通信機が移転してきたので、この名前に変わったとのことです。
説明板には、嘗ての分水口の写真もありました。

烏山用水は、烏山川の流量を増やすために、烏山村の農民が幕府に請願し、万治2年(1659)に開削されたとされます。下流で烏山川と合流し、烏山村など流域10村に補給されていました。

北沢分水のほうは、北沢川の流量を増やすために、万治元年(1658)に引かれたとあります。当初は、「上北沢分水」と呼ばれましたが、後に北沢川とあわせて「北沢用水」と呼ばれるようになったとのことです。
北沢用水の分水口は、当初はもっと下流にあったらしいですが、明治4年(1871)の玉川上水通船のための分水口統合の際に、現在の岩崎橋付近に移されたそうです。

草に隠れて見えづらいですが、岩崎橋の上から下流側のすぐのところに烏山分水口跡が見えます。
その数10m先に、上北沢村分水口跡と堰の跡があります。

参考資料
 【烏山川1(川のプロムナード)
 【北沢川源流域/北沢分水を辿る(1)(東京の水 2009 fragments)
 【玉川上水今昔
 【上流より見た烏山分水口(東京都水道局)

開渠終端(浅間橋)【100選】


次の橋は浅間橋。ここで、玉川上水は地下に潜ってしまいます。
東京都水道局のホームページによれば、「浅間橋で暗渠に入った清流の終末は、京王井の頭線高井戸駅付近で神田川に放流されている」とあります。

今回のウォークはここで終了。富士見ヶ丘駅まで歩いて解散しました。

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