玉川上水&分水網遺構100選ウォーク
2019.06.21

羽村取水堰~拝島

第1回は、玉川上水の始点である羽村取水堰から拝島まで歩きました。 今回のルートです。

羽村駅を出発。多摩川に向かって真っすぐ歩きます。新奥多摩街道の手前にある観光案内所で玉川上水散策マップをもらいました。
新奥多摩街道の交差点のところに「旧鎌倉街道」の説明図があります。ここを斜めに横切って、羽村取水堰の少し下流のところで多摩川を越え、あきる野市から滝山方面に向かっていたそうです。
さらに道を下ると、右手に稲荷神社、左手に禅林寺があります。禅林寺には、中里介山の墓があります。

玉川水神社と陣屋跡

そのまま道を下ると、奥多摩街道にぶつかり、正面は羽村取水堰です。奥多摩街道に沿って右に曲がり、東京都水道局羽村取水所の敷地を過ぎたところに玉川水神社と玉川上水羽村陣屋跡があります。
玉川水神社は、上水の守護神として、承応年間に玉川上水築造に尽力した玉川庄右衛門・玉川清右衛門二人の兄弟が勧請したと伝えられ、幕府が管理していたとのことです。羽村陣屋は、玉川上水通水と同時に設置された江戸幕府の役所で「水番所」とも言われていたそうです。現在は、陣屋門だけが残っています。

参考資料
 【玉川水神社(猫の足あと)
 【羽村陣屋跡(国交省関東地方整備局)

羽村取水堰【100選】

奥多摩街道を少し戻って道を横切り、階段を下ると、玉川上水を渡る橋があります。橋の上から、取水堰から多摩川の水が玉川上水に流れ込み、一部の水が再び多摩川に戻る様子がよく分かります。
橋を渡ると広場があります。広場から、投渡堰と固定堰、第1水門などが良く見えます。 牛枠(川倉水制)の説明図もあります。
玉川兄弟の銅像の下で小学校の校外学習の児童が記念写真を撮っていました。

参考資料
 【羽村取水堰(東京都水道局)
 【羽村取水堰(国交省関東地方整備局)

第3水門と羽村導水ポンプ所

広場から玉川上水の右側を下流に少し下ると、第3水門と羽村導水ポンプ所があります。ここで、多くの水が水道原水として取水され、残りが玉川上水を流れ下ります。
職員の方が外にいたので話を聞くことができました。第3水門から村山・山口貯水池へは、自然流下で水を送り。沈殿槽できれいにした水をポンプで小作浄水場に送っているそうです。取水堰の広場に「多摩川の原水の流れ図」がありました。

玉川上水旧堀跡(加美上水公園)【100選】

さらに下って、福生市に入ると間もなく加美上水公園があります。公園は小山になっていて、左側に玉川上水が流れ、右側は多摩川の河川敷に接しています。
開削の当初、玉川上水は、多摩川の側を通っていました。多摩川本流と近接していたため、多摩川の洪水により、上水まで決壊してしまう危険があるため、約90年後の1740年に現在の位置に移設したそうです。
公園の一番下流側、加美上水橋の側の公園内に説明図があります。旧堀跡のような痕跡を見ることができます。
少し下流に玉川上水が不自然に湾曲している箇所があり、ルートが変えられた痕跡が見られます。

参考資料
 【玉川上水旧堀跡(福生市)
 【玉川上水旧堀跡(福生市郷土資料室)

田村分水と田村酒造(嘉泉) 【100選】

少し下流の宮本橋のところで、玉川上水沿いを歩く道は終わります。ここを右折してすぐに田村酒造があります。敷地の中を田村分水が流れており、裏門のところから流れ出ています。
田村分水は、田村家が慶応3年(1867)、分水開設の願い出を出し認められた、個人分水であり、大名屋敷に流れるものを除いては、大変珍しいものだそうです。水車により、精米・製粉などを行っていました。

参考資料
 【田村分水(武陽ガス)
 【田村分水(川のプロムナード)

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ここまでで、歩き始めて約2時間、丁度お昼前になりました。福生駅の周辺でランチ休憩です。

宮本橋から五丁橋までは玉川上水沿いの歩道がないので、福生駅から電車で移動です。拝島で五日市線に乗り換えて熊川駅で下車。五丁橋まで歩きました。

開削工事跡(水喰土公園)

五丁橋のところに水喰土公園の入り口があります。公園の中程に、「みずくらいど」といわれる玉川上水開削時の堀跡が遺されています。
開削当時、上水に水を流したら、ここのところで水が残らず地中に吸い込まれてしまい、このことから水喰土「みずくらいど」の名が誕生したとのことです。

参考資料
 【玉川上水開削工事跡(福生市郷土資料室)
 【玉川上水開削工事跡(福生市郷土資料室)

日光橋(レンガアーチ)【100選】

水喰土公園から玉川上水に沿って遊歩道があります。拝島駅のホームが見えるところまで来ると日光橋があります。
名前の由来は、江戸時代以来この橋を通る街道の名前が日光街道と呼ばれていたことによります。日光東照宮警護で八王子千人同心が日光へ赴くために作られた街道です。
日光橋は、明治24年(1891)にレンガアーチ橋に架け替えられました。国内に現存する最古の道路レンガアーチ橋だそうです。昭和25年(1950)に両サイドを拡幅したので、アーチ状になっている橋の下側をのぞくと、中央部分に明治時代のレンガが貼られている様子を見ることができます。

参考資料
 【日光橋(福生市郷土資料室)
 【箱根ヶ崎宿と日光街道(武陽ガス)

拝島分水・殿ヶ谷分水の取水口

拝島駅北口駅前の平和橋が今日のゴールです。
平和橋の下流すぐ右側に拝島分水の取水口があります。拝島分水は江戸時代中頃の元文5年(1740年)に開削され、拝島村民の生活・農業用水として利用されていました。現在も水は流れていますが、殆ど暗渠になってしまっています。
平和橋の下流少し先の左手には、殿ヶ谷分水の取水口跡があります。殿ヶ谷分水は「享保の改革(将軍吉宗)」による新田開発の奨励によって江戸時代中頃の享保5年(1720年)に開削され、現在の立川市西砂地区の生活・農業用水に利用されていました。現在は、分水口が残るのみで使用されていません。

参考資料
 【拝島分水・殿ヶ谷分水(武陽ガス)
 【拝島分水(川のプロムナード)
 【殿ヶ谷戸の地名を訪ねて

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