「まちセンだより」(国分寺市まちづくりセンター情報紙)2014年3月~2015年7月号に掲載された「私たちのまちの今・昔シリーズ」から転載しました。

はじめに

国分寺市域での人々の暮らしを遡れば、約3万5千年前の旧石器時代まで遡ることができます。縄文時代の遺跡も多数見つかっています。下って8世紀、奈良時代には武蔵国分寺(僧寺、尼寺)が造営され天平文化が花開きました。
しかしながら、現在のまちの原型は、江戸時代、享保年間の新田開発(1722年~)に求めることができます。そこで本特集では、順次新田開発以降に焦点を絞って、まちの成り立ちを現在の町名に従って紹介していきます。
ちなみに現在の国分寺市域が成立したのは、明治22年(1889年)旧国分寺村、恋ヶ窪村の二村と本多新田、戸倉新田、野中新田六左衛門組、榎戸新田、内藤新田、中藤新田、平兵衛新田、上谷保新田の八新田が一緒になって新しい国分寺村が誕生した時になります。その後、昭和15年(1940年)国分寺町へ、昭和39年(1964年)国分寺市となり今日に至っています。
先ずは、下図(大正初めの大字小字区分図)をご覧ください。恋ヶ窪村、国分寺村以外は直線で区切られています。二村は地形で、各新田は人為的に区切られた土地であることが見て取れます。五日市街道沿いの野中・榎戸新田などは、すべての家で用水路が利用できるよう用水路に沿って細長く区画されています。今でもこれらの地割り(所有区分)は残っています。

また、これらの大字・小字については、国の「町名整理」、「住居表示制度」の制定などによって、昭和39年から42年までの足かけ4年間かけて、現在の19の町名に生まれ変わりました。やむを得ないこととは言え、新田開発時代からの歴史や地形がもたらした、貴重な地名などが失われたのは残念なことです。これらについても、以降の各節で触れていきます。

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