国分寺市教育委員会編
『国分寺市の民俗Ⅲ ― 野中新田六左衛門組・榎戸新田の民俗 -』
P154~155『信仰 4 講と日待ち』から転載しました

信仰 4 講と日待ち

 野中・榎戸新田の講組織は。昭和30年以前は盛んに活動していた。ここでは、昭和30年代以前の様子を中心に、この地域で行われていた講組織とお日待ちを紹介する。

御嶽講
 青梅市の御嶽神社への代参講で、代参は昭和30年前後までさかんに行われていたが、以後、次第に廃れたという。講中は、それぞれの新田で独自に組織し、各40軒ほどが加入していた。

 この講では、2月ないし3月にお日待ちを行う。前年、代参に選ばれた家がヤドとなり、ウドンを作り。酒席を設けて講中の人々をもてなす。この席で、世話役がくじ引きの札を用意し、4名の代参者を決める。この4名は、新田内の4つのクミを2つに分け、それぞれから2名ずつ選出されるように配慮している。ただし、前年の代参者はこのくじに参加しない。

 代参は、4月の月初めに行われ、ほとんどの場合、五日市街道沿いの野中新田六左衛門組・榎戸新田の講中が一緒になって出かけている。両新田とも御嶽神社で泊まる宿坊や、先導する御師(片柳氏)は同一であり、代参の全行程にわたって行動を共にする。

 代参から帰ると、頂いてきた札を配る。札の中には、新年の祈祷札のように、御師(おし)が出向して配布する場合もある。

 御嶽神社札の御利益は、五穀豊穣・厄難除去・家内安全などが中心で、オイヌサマの札はトボグチに貼って盗難除けとする。また、二百十日には、風の神送りとして御嶽神社の祈祷札を竹の先に刺し、畑に置く。

 このほか、雨乞いの祈祷も御嶽神社に出かけて行われ、日照りのときには次のような行事が営まれた。

 村の世話役らが御嶽神社に行き、雨乞いの祈祷をしてもらう。そのとき、御嶽山に湧く清水を竹筒に入れて持ち帰る。ちなみに帰り道では、決して後ろを向いたり、休んだりしてはならない。

 水の到着に備えて、村では玉川上水の分水路をせき止め、注連縄をはった樽を用意しておく。御嶽の水を樽に注ぐと、
 「降ったり、降ったりな。大天狗、小天狗」
と、囃しながら、男性当主がフンドシ姿になってせき止めた水路に入り、水の掛け合いをする。

 こうして雨が降ると、オシメリ正月といって農作業を休む。作代にも臨時休養をとらせて、労をねぎらうのである。

 現在、御嶽山への代参は消滅しているが、新年の祈祷札などは今もなお送られてきており、信仰対象としての御嶽山は健在である。

ハンナ講
 群馬県の榛名山への代参講で、第二次世界大戦前まで続いていた。この講も、野中・榎戸両新田でそれぞれ独自に組織され、共に40軒前後で構成されていた。榛名山への代参は、御嶽講のそれと同じ時期に行われ、お日待ちの形態もほぼ同様である。

 まず、2月か3月ごろ、当番のヤドでお日待ちをし、くじを引いて2、3人の代参者を決める。代参者は、4月の初めに榛名山に出かけ、祈祷札を頂く。代参の当日は伊香保温泉に宿泊し、翌日には帰途につく。

 代参は御嶽講同様、全行程にわたって野中・榎戸新田が合同で行動する。組織としては新田ごとに独立している2つの講だが、代参形態や神社側からの扱いには、1つの講として営まれている要素が少なくない。

 代参から帰ると、それぞれの新田ごとに、帰り日待ちが開かれる。大抵、4月13日である。順ぐりで決まっている当番の家がヤドとなり、ウドンを作り、酒席を設ける。ここで札が配布され、祈祷の御璽札はダイジングウに、嵐除けの札は篠竹に挟んで先端に杉の葉を飾り、畑に置く。

 榛名山神社は、主として農作物の豊作祈願に御利益があると言われ、遅霜による冷害や、嵐による風水害を鎮める目的で信仰された。代参者は、講の積み立てから交通費と初穂料をもらって出かけていたが、第二次世界大戦で代参が途絶えてからは行われなくなり、現在では札も送られてこない。

塩釜講
 高木新田で行われていた講。塩釜神社は、東大和市高木にあり、そこから高木新田に出た家を中心に、16、7軒ほどで組織していた。4月15日の神社の祭礼に出かけ、札をもらってきたという。女性が中心となって安産を祈る講で、昭和40年ころまで続いたが。現在は行われていない。

毘沙門天のオヒマチ
 鳳林院境内にある毘沙門天のオヒマチで、10月2日に定例のオヒマチが開かれる。榎戸弁天を除いた野中新田六左衛門組・榎戸新田の家が参加する。

 このオヒマチは、日待ちなどを新田別に組織する御嶽講、ハンナ講などに比べ、より古い形態を残すものと考えられる。

 オヒマチの日には、両新田から選ばれた8人が当番となり、鳳林院の庫裏(くり)を会場に借りて、宴席を用意する。この日の食事はウドンであり、大ザルにウドンを盛って、来た者から順に食する。会場には酒も出し、演芸が披露されたり、屋台・流し売りが店を立てたりして盛大な催しとなった。

 伝承によると、天保年間には、この日になると博打小屋がいくつも立ち、近隣の侠客の大親分が元締めとなったという。当時、賭博は禁制だったが、この日だけはお上も黙認してくれたそうである。

 現在でもこのオヒマチは存続しており、10月2日に開かれている。