国分寺市教育委員会編
『国分寺市の民俗Ⅲ ― 野中新田六左衛門組・榎戸新田の民俗 -』
P148~152『信仰 2 寺院と檀家』から転載しました

信仰 2 寺院と檀家

鳳林院
 自得山鳳林院と号し、五日市街道ぞいに堂宇を構える黄檗宗の寺院である。この寺は、現在小平市花小金井にある円成院の末寺で、野中新田の開発に携わった円成院大堅を開山の祖とする。年不詳の「東京府北多摩郡寺院明細帳」(『国分寺市史Ⅲ』)では、鳳林院の概観を次のように記録する。
  東京府下武蔵国北多摩郡国分寺村野中新田字谷ノ本北側二十三番地
     黄檗宗本山萬福寺 鳳林院
  一、本尊 釈迦如来
       本尊千手観世音(安永二年五月東淵和尚創建)
  一、由緒 正徳三年七月創建
       元南多摩郡稲城村大字東長沼光明院本尊
  一、仏堂 間口七間 奥行六間
  一、鐘堂 間口一間半 奥行一間半
  一、庫裡 間口十間 奥行五間
  一、薪小屋 間口二間 奥行一間半
  一、境内 三反二畝六歩  官有地

続いて『北多摩寺院大観』では次のように記されている。

 本寺は円成院末にて正徳三年七月の創建にかかり、開山は大堅和尚なり(延享元年五月三日示寂)開基は野中六左衛門。大堅和尚は土民のために新田開墾を発願し、同意者十二人を語らひて公許を得、野山を開きこれを野中新田と名付けたりといふ
 境内-毘沙門堂在り、本尊木の立像丈八寸厨子入り

〔鳳林院と大堅和尚〕
 鳳林院開山の祖である大堅は、もとは上谷保村(国立市内)にある黄檗宗円成院の住職であった。ところが、幕府が新田開発奨励の高札を掲げた享保7年(1722)、自身も武蔵野の新田開発を志す。『郷土こだいら』(小平市教育委員会)では、開発の動機を黄檗宗信仰の布教であるとしているが、確かに黄檗宗は江戸時代に入ってからおこった新興宗教であり、既成の村落への布教はかんばしくなかったといわれる。そのため、檀信徒の拡大は新田村落に向けて行われることが多く、大堅の新田開発もその一例と考えられている。同年10月2日に出された誓願状には、大堅が円成院本尊の千手観音から大願成就の御鬮(くじ)をひき、毘沙門天の神託を受けて開発願いを提出する旨が記されており、開発の動機と宗教との関連が注目される。

 当初は、大堅を中心とする5人の開発仲間によって、新田名を矢沢新田、菩提寺を箭沢山長流寺、鎮守を毘沙門天とする予定だった。しかし、冥加永の上納金問題などによって変更を余儀なくされ、長流寺の開山はならなかった。ただし、円成院の引寺は開発計画の段階から予定されていたらしく、開発地の割り渡しが始まって間もない享保9年(1724)9月2日、草庵程度のささやかな寺が北野中(後の野中新田与右衛門組)に誕生した。大堅和尚も引寺にともなって新天地に移住し、「円成院」の寺号も、享保11年(1726)には上谷保村から引き移されている。

 大堅によって鳳林院が創建されたのは正徳3年(1713)であるから、こうした新田の開発や引寺が行われる前から、当地への布教活動はあったわけである。ただし、鳳林院が境内を定め、鎮守である毘沙門天の遷宮祭礼を行ったのは享保9年(1725)のことであり、それ以前の鳳林院の消息については、現存する資料では不明である。

 野中善一家所蔵の享保7年(1723)の「武蔵野新田儀定書并願書諸證文之控」(『国分寺市史料集Ⅱ』)や、清水清五郎家所蔵の年不詳の「反別帳之写」(『同』)などによると、境内地を取り決めた後、鳳林院は次のような段取りで建立されたことがわかる。
  享保11年(1726)堂地取り決めの絵図面製作
  同 12年(1727)鳳林院建立
  同 13年(1728)入仏

 鳳林院は当初、円成院支配の寺として成立し、野中新田「組分け」の後は、六左衛門の菩提寺として機能していく。

〔毘沙門天堂〕
 鳳林院境内にある堂で、木像8寸大の毘沙門天立像を安置する。新田開発以前は上谷保村の円成院に安置されていたが、野中新田の鎮守として北野中に遷宮され、さらに南野中に勧請されたものが、この堂に祀られている。

 毘沙門講は、この堂ゆかりの講として現在でも続いている。

〔檀家と墓地〕
 鳳林院の檀家は、五日市街道沿いの野中新田六左衛門組が中心である。墓地はすべて、鳳林院にある。

〔主な年中行事〕
  4月8日 花祭り。境内で甘茶を配り、参拝に訪れた人に配った。
  9月18日 施餓鬼。檀家が全部集まり、経をあげてもらう。
       卒塔婆をいただいて墓地に供える。

妙法寺
 瑞雲山妙法寺と号し、鳳林院のはす向いに位置する曹洞宗の寺院である。この寺は、もと小平村小川(小平市)にあったが、明治42年、当地へ移転されたものである。

 年不詳の「東京府北多摩郡寺院明細帳」(『国分寺市史料集Ⅲ』)によると、次のように記録されている。

東京府北多摩郡国分寺村大字榎戸新田百三番地
  海禅寺末
  曹洞宗   妙法寺

一、本尊
釈迦如来
一、由緒
天正度勅特賜関洲徳光禅師中興、清水太郎左衛門政久開基、年歴不詳、明治四十二年八月中東京府庁ノ許可ヲ受ケ西多摩郡古里村ヨリ現地二移転ス、尋テ同郡小平村妙法寺ヲ法正院二合併シ、同時ニ妙法寺卜改称ス
一、本堂
間口六間  奥行五間
一、庫裡
間口九尺  同 四間
一、境内
三百七十五坪  民有地

 続いて、榎戸嘉市家所蔵の明治42年(1908)の「妙法寺書上」『同』では、その由緒を次のように記している。

明暦二年ノ創建ニ係リ、小川九郎兵衛開基シ、舜應東堯和尚ノ開山ニシテ、本郡小平村大字小川ニ妙法寺卜称シ存在セシトコロ、興廃ニ関シ二十四世ニ至リ、明治四十二年十二月十一日国分寺村法正院ヘ合併シテ更ニ瑞雲山妙法寺卜改称ス、但シ法正院ハ西多摩郡古里村大字棚沢ニ天正年間勅特賜関州徳光禅師中興、清水太郎左衛門政久ノ開基ニシテ、明治四十二年八月二十四日該地ヨリ国分寺村ニ移転ス、而シテ妙法寺卜合併ス

とある。すなわち、現在の妙法寺は、小平村小川にあった妙法寺と、西多摩郡古里にあった法正院とが合併して成立しているのである。

〔国分寺村妙法寺の成立過程〕
 明治42年に榎戸新田に移転した妙法寺であるが、その事情について『郷土こだいら』では次のように説明している。

 明暦2年(1656)の創建にかかり、小川村の開祖小川九郎兵衛が武州多摩郡中藤村(武蔵村山市)の長安寺の塔からここに引寺して、当初は小川の半分と、榎戸新田の一部を檀徒として相当にさかえたもののようであった。江戸中期になって小川の檀徒がみんな小川寺に寄属し、榎戸新田の一部を残すのみとなったために、寺は衰微の一途をたどった。

 要するに、妙法寺は小川にありながら、江戸中期の時点で檀徒はすべて榎戸新田の家になってしまったのである。

 こうした事情に加え、明治19年に井上嶺明住職が没すると、妙法寺は無住の状態になってしまった。この状態は、明治41年まで23年間続き、あくる年榎戸新田に移転しているのである。

 さて、移転の際、妙法寺は法正院と合併しているが、この法正院があった古里村大字棚沢(奥多摩町)は、榎戸新田における親村のひとつである大丹波村と同じく、奥多摩町に位置している。おそらく法正院は、榎戸新田の親村とのゆかりがもとにあり、それとの縁で引寺したものと想像できる。

 新たな妙法寺の境内は、榎戸家の墓所であり、希運庵という庵室のあった場所が充てられた。現在の本堂は昭和47年に建て替えられたものである。

〔謝恩塔〕
 寛政11年(1799)、武蔵野新田82ヵ村によって建立された塔で、新田経営に功績のあった代官、川崎平右衛門、伊奈半左衛門の謝恩塔である。初期の塔は大正12年の関東大震災で倒壊し、昭和25年に再建されたものが現在にいたる。

 川崎平右衛門は多摩郡押立村(府中市)の名主で、元文3年(1738)に武蔵野新田を襲った大凶作に対処するため、同4年武蔵野新田世話役として登用された人物である。彼は、従来の供与・貸与を中心とする救済策を見直し、農民の労働力を確保し生かすことによって、新田地域を立て直したといわれる。

 例えば、彼の施策のひとつに、溜穀(ためごく)・養料金の制度というものがある。溜穀とは、毎年新田村の各戸から一定量の雑穀を徴収して飢饉に備えるという制度で、食料不足の村にはこれが貸し出された。溜殿で集まった雑穀のうち、古穀は売りさばかれ、その代金を運用して積立金とした。これが養料金である。溜穀も養料金も組合形式で運営され、余剰利益は各戸に分配されたが、出百姓の開拓資金として融資されることも頻繁にあり、新田開発への貢献は大きかったという。

 こうした功績を讃えて謝恩塔を建立したのであるが、発起人総代は榎戸新田名主の榎戸源蔵であった。当時武蔵野には82の新田村があったといわれるが、それらの総代として榎戸源蔵の名があることは、この新田の勢力関係を考える上で興味深い。

師檀関係の推移
 平成3年現在、鳳林院の檀家は野中新田六左衛門組の家が中心である。五日市街道沿いの野中新田六左衛門組の人々は皆、鳳林院を檀那寺とし、同寺の敷地内に各戸の墓地を有している。これに対して、榎戸新田の人々は妙法寺を檀那寺としている。

 ただし、このような師檀関係は、新田開発当初からのものではなく、ある時期までは。野中新田六左衛門組も榎戸新田も鳳林院を檀那寺としていたらしい。次の事例は、いずれもその証左である。

 第一に、享保13年(1728)に入仏が行われた際、寄進者の記録として野中六左衛門(野中新田六左衛門組の名主)と榎戸角左衛門(榎戸新田の名主)連名の控えが現存する。第二に、鳳林院入口にある六道の石碑には、文政元年(1818)建立の記録があり、寄進者のなかに榎戸源蔵(榎戸新田の名主)の名がある。第三に、天保6年(1835)には寺に鐘が寄進されているが、その銘文にも榎戸源蔵の名がある。第四に、清水清五郎家文書にある「鳳林院旧除地実測図」には、鳳林院の境内に。野中・榎戸両新田の地所が含まれている。第五に、鳳林院の施餓鬼は、かつてオオタバの施餓鬼と呼ばれていたが、オオタパとは。榎戸新田を開いた榎戸嘉市家の親村である大丹波村(奥多摩町)を指す。第六に、清水清五郎家文書の「反別帳之写 - 諸事留帳」の項に、「宝暦5年(1755)鳳林院離檀」という記事があり、清水家(榎戸新田)は、当初、鳳林院を檀那寺としていたことが分かる。第七に、榎戸新田の複数の家が、昔は鳳林院の檀家であったと伝承している。

 こうした事実を照合すると、江戸時代後期の天保年間頃までは、榎戸新田の中でも鳳林院を檀那寺としていた家があったと考えられる。もっとも、『国分寺市史』などによると、新田開発当時、榎戸新田は野中新田の一部だったと考えられているから、同村の檀那寺も鳳林院であるのが自然であろう。

 それでは、なぜ後世になって、榎戸新田と鳳林院の師檀関係は絶えてしまったのであろうか。この原因については、二つの事情が考えられる。

 第一は、榎戸新田が独立性を強めた結果として、榎戸新田独自の菩提寺を求めたという事情である。新田が組に分かれるなどして独立していく場合、自己の組に菩提寺を求めてそれまで服属していた新田の菩提寺から離檀することがある。野中新田でも、この新田への出百姓は、皆、円成院の檀家になるという約定があったが、享保19年(1734)に。離檀出入りで紛糾する事態があった。原因は特定できないものの、享保17年(1732)に野中新田が四つの組に分かれたという時期を考えると、これも菩提寺独立の動きと推測できる。

 第二は、榎戸新田への出百姓の本村における宗派が、円成院のそれと著しく異なっていたという事情である。鳳林院から離檀したあと、榎戸新田の菩提寺は、小平市小川にあった妙法寺になっている。この寺の宗派は曹洞宗だが、これは榎戸角左衛門の親村である大丹波村における菩提寺の宗派であった。円成院の黄檗宗は、江戸時代になってから興った宗派であり、これへの帰属は、もともと抵抗があったのかもしれない。

 榎戸新田の田中政雄氏は、伝承として次のような事情を語る。

新田開発から130~140年間は、鳳林院が檀家だったと伝わる。墓地も当初は鳳林院にあった。ところが、新田が分かれているのであるから菩提寺も別にすべきだということになって鳳林院を離檀し、小平の妙法寺の檀家になった。ただし墓地は妙法寺に置かず、自宅裏の畑に墓石を移動していた。これを妙法寺に移したのは明治10年代のことである。