国分寺市教育委員会編
『国分寺市の民俗Ⅲ ― 野中新田六左衛門組・榎戸新田の民俗 -』
P15~17『概況 2 開発の経過』から転載しました

概況 2 開発の経過

野中新田の開発
 野中新田の開発願書は、新田開発の奨励の出た直後の享保7年(1722)10月に、7人の上谷保村(国立市)の農民と4人の江戸の商人、計11人が開発仲間となって相談して作成され、開発仲間のうち5人の連名で幕府の代官に差し出された。願書には開発を予定する場所が記され、それによると柴崎村(立川市)から田無村(田無市)までの東西60町余(約6550メートル)。南北30町余(約3280メートル)という広大な地域のうちで、地味の良い場所を開発することにしていた。また、開発仲間の間では、開発許可がおりた後の新田の運営を合議でおこなうという仲間証文が取りかわされた。

 享保8年、幕府から新田開発の権利金といえる、冥加永250両の上納を命じられた。しかし、開発仲間では250両を用意することができず、野中屋善左衛門に冥加永の肩代わりしてもらうことにした。善左衛門は、上総国万石村(千葉県木更津市)の出身で、江戸で百姓宿を営んでいたといわれ、この当時、すでに隣の貫井村(小金井市)の開発地である鈴木新田(小平市)の開発に冥加永を出資していた。野中新田の開発仲間は、冥加永を出資してもらう代わりに、善左衛門が新田村の名をつけて、本人が希望する開発地を差し出すことにした。これにより新田の村名が、善左衛門の屋号をとって「野中新田」と決まったようである。ただし、『新編武蔵風土記稿』には、野中新田が「武蔵野新田の中程なるが故に、かく名づくと云」とある。

 享保9年(1724)5月、野中新田の開発地である513町歩が、開発仲間に割り渡された。しかし、享保10年から11年にかけて、開発地の一部が、周辺の砂川村(立川市)・中藤(なかとう)村(武蔵村山市)・大岱(おんた)村(東村山市)・廻り田(めぐりた)村(東村山市)へ売却され、総反別は348町ほどに減少し、開発仲間のうち上谷保村出身の4人が野中新田から帰村した。さらに享保18年には、14町歩が本多新田へ売却されている。一方、享保11年、鈴木新田が野中新田の支配下になった。このように野中新田は、その開発当初に反別の増減がみられたが、享保11年に村名が正式に「野中新田」と付けられ、名主などの村役人も決まり、村としての体制を整えるようになった。

野中新田と円成院
 野中新田の開発には、その当初から上谷保村にあった黄檗宗の寺院、円成院が深くかかわっていた。円成院の住職、大堅は、武蔵野新田の開発について本尊の千手観音から諸願成就という御神籤(おみくじ)を引き、毘沙門天のお告げをうけたという。そこで、上谷保村の矢沢藤八と二人で開発願いの発起人となり、開発が許可されれば、村名を矢沢新田とし、箭沢山長流寺という寺を取り立て、毘沙門天王を鎮守として勧請すると決めている。しかし、前述したように開発仲間で冥加永を準備できなかったので、村名は野中新田になり、藤八は。享保11年に上谷保村に帰村している。

 円成院は、11人の開発仲間に入ってはいなかったが、新田の開発は11人と円成院の合議で進めることになっていた。さらに、開発が許可されれば最初に毘沙門天の堂を建立すること、新田の百姓は円成院の檀家になること、開発地を仲間で12等分に分割するとき円成院に望みの区画を与えること、新田に他宗の寺院を建立しないこと、などを決めて野中新田における地位を固めている。

 開発地が割り渡された4ヵ月後の享保9年9月、円成院は北野中(後の与右衛門組)に移り、毘沙門天も遷座された。翌年、毘沙門天は南野中(後の六左衛門組)にも勧請されている。このように円成院が新田開発に積極的にかかわったのは、黄檗宗が江戸時代になってから起こった新しい宗派で、古い村に檀家を広げることが難しいため、新田村に注目したという背景がある。円成院の末寺として、南野中には鳳林院が創建された。野中新田六左衛門組の毘沙門天は、この鳳林院境内の堂に祀られており、現在も榎戸弁天を除いた野中新田六左衛門組と榎戸新田が共同で、毎年10月2日に毘沙門天のオヒマチ(お日待ち)をおこなっている。

野中新田の組分け
 野中新田の領域は、現在の国分寺市から小平市に広がる大きなものであった(図8参照)。そのため、年貢の徴収などに不便があったようで、享保17年(1732)に3つの組に分けて、それぞれを村として独立させ、各組に名主をおいた。名主は、与右衛門・善左衛門・六左衛門で、その名主の名前を組の名称とした。このとき、享保11年(1726)から野中新田の支配下になっていた鈴木新田も再び独立している。

 組分け以前から、「北野中」「南野中」と史料に記され、野中新田を南北に地域区分している。その「南野中」が後の野中新田六左衛門組であることは確認できるが、その機能は不明である。組分け以後は、小平市に含まれる野中新田与右衛門組と野中新田善左衛門組の集落が、「北野中」「通野中」「堀野中」などと通称され、野中新田六左衛門組は、以前と同様に「南野中」と通称された。

国分寺区分図

榎戸新田の成立
 榎戸新田は、野中新田の組分けが行われた前後に、野中新田六左衛門組から分村したようであるが、その経緯を記す史料はなく、正確なことはわからない。しかし、榎戸新田の名主、榎戸角左衛門の名は、享保11年には南野中新田の出百姓として記され、伝説でも野中新田六左衛門組と榎戸新田が一つの村であったと聞かれるので、榎戸新田が野中新田六左衛門組から分村したと判断して間違いないようである。

 榎戸新田は、当初は「大丹波(おおたば)新田」という名称で、享保15年(1730)から史料にあらわれる。大丹波とは、榎戸新田の名主である榎戸家の出身地で、現在の奥多摩町にあった村である。元文元年(1736)の検地から榎戸新田という名称になっている。分村の時期は、享保15年から元文元年の間と考えられ、榎戸新田の百姓代をつとめた清水清五郎家所蔵の年不詳の「反別帳之写」(『国分寺市史料集Ⅱ』)に、享保15年4月「当所村分願初」とあって、野中新田の組分け以前から榎戸新田が分村しようとしていたことがわかる。

榎戸新田の名主
 野中新田六左衛門組から榎戸新田が分村した原因として、伝説では名主同士のけんかを伝えている。その真偽を示す史料はないが、榎戸新田の名主になった榎戸家が、分村できるだけの力を持っていたことを示しているといえよう。

 榎戸家は、榎戸新田の名主のほか、隣接する平兵衛新田の名主も兼帯した。また、武蔵野新田の村々を統括する「武蔵野総代」にもなっている。「武蔵野総代」が正式な役職かは不明であるが、武蔵野新田を支配した代官所と村々との間にたって、様々な仕事をしたようである。

 榎戸新田の妙法寺境内には、川崎平右衛門と伊奈半左衛門という二人の代官の民政に感謝する、いわゆる川崎・伊奈両代官謝恩塔がたっている。これは、寛政11年(1799)に榎戸家が主唱して、武蔵野新田の82ヵ村で建立したものである。このように武蔵野新田の全域に呼びかけることができたのは、やはり榎戸家が「武蔵野総代」という立場にあったからだと考えられる。

 寛延元年(1748)に、国分寺市域が尾張徳川家の鷹場に組み入れられると、市域周辺は尾張藩士が常駐する立川陣屋の管理下になった。陣屋では、受け持つ範囲の村々を数組に分けて代表の名主を選び、「御鷹場お預り御案内」に任命して鷹場を管理する役目の一端をになわせた。このとき市域を担当した名主は、年代によって変わったが、下小金井村(小金井市)・小川村(小平市)・砂川村(立川市)・立川村(立川市)の名主とともに、榎戸家もその役に付いている。そして鷹狩りに来た尾張の殿様が榎戸家に泊まったと伝えている。