埼玉県指定 史跡

野火止用水

昭和19年3月31日指定

野火山用水は、承応4年(1655)に、川越藩主である松平伊豆守信綱により、武蔵野開発の一環として、野火止台地開拓のため必要とする生活用水の確保を目的として作られた用水路です。

松平信綱は、川越に入府以来、領内の新田開発を推進する一方、原野のままであった台地開発に着手して、承応2年、野火止台地に農家55戸を入植させて開拓にあたらせました。しかし、関東ローム層の乾燥した台地は飲料水さえ満足に得られない土地であったため、開拓農民の困窮は、はなはだしいものがありました。

承応3年、江戸幕府の老中職にあった松平信綱は、玉川上水を完成させた功績により、玉川上水から三割の分水許可を幕府より得て、野火止用水の開削にとりかかりました。工事は、家臣の安松金右衛門らに命じて、承応4年2月10日に始まり、約40日後の3月20日ころには完成したといわれています。これにより野火止200石の地は2千石を産するようになったと言われています。

豊かな水を得た土地の人々は、この工事に深く感謝して、野火止用水のことを「伊豆殿堀」とも呼びました。

用水は、多摩郡小川村(現、東京都小平市)から野火止台地を経て新河岸川に至るまでの全長約25kmにも及びます。

のちに新河岸川に、いろは四十八の樋を架けて、志木市宗岡の水田地帯をうるおすようになりました。また、寛文3年(1663)、岩槻の平林寺を野火止に移すと ここにも用水堀を開削して引水しました。

幹線水路は、本流を含めて4流あり、末端は樹枝状に分かれています。支流は、通称「菅沢・北野堀」・「平林寺堀」・「陣屋堀」と呼ばれています。

用水敷は、おおむね4間(7.2m)あり、水路敷2間を中にして、その両側に1間ずつの土あげ敷をもっていました。

水路は、地形的に高いところを選んで掘りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への潅漑および沿線の乾燥化防止に果たした役割は、きわめて大きいものでした。

野火止用水の流れは、昭和37・8年頃までは付近の人々の生活水として利用されていましたが、急激な都市化の影響により、水はしだいに汚濁し、流れに泳ぐ魚や用水で遊ぶ子供たちの姿をみることはできなくなってしまいました。 そこで昭和49年度から、東京都と埼玉県・新座市で復元・清流復活の事業に着手し、本流と平林寺堀の一部を復元しました。